ジャズをやるにおいてジャズだけを聴くのは問題か否か。

 先に断っておくが題名に記した疑問への答えは出ていない。ただそれについて思いを巡らせただけの駄文である。

 本ばかり読んでいる人は小説家にはなれないと言う。小説家とは、その人が自らの人生で感じた感動、悲しみ、驚き、喜びを文章にして表現する職業だからであると言う。また、その心の揺さぶりは様々な事から得た物ではならないと言う。勉強、恋愛、旅行、そして挫折。本ばかり読んでいる人間に、透き通るような空の青さを表現する事は以前読んだ文章の模倣という手段でしか表す事が出来ないのだ。
 俺が最も好きな作家の一人に佐藤亜紀さんがいる。彼女の著書『ミノタウロス』を読んだ時、こんなに脳裏にイメージさせる文章を書ける作家がいるのかと驚いた。ロシア革命前後のウクライナの冷たい空気が文字と文字の間を吹き荒れているような、そんな陳腐な表現しか出来ないが、格調高い文章で強盗や殺人などを描写する様に俺は畏れにも近い感情を抱いたのだ。気になって佐藤亜紀さんの事を調べてみると合点が行った。彼女は西洋の美術やクラシック音楽にも造詣が深く、オペラをこよなく愛する人であった。また、大学での専攻は18世紀の美術批評。彼女が見た芸術達が目まぐるしく変貌を遂げた歴史の流れ、そして享楽的なロココ様式を学ばせ、あれ程に冷ややかであり情熱を感じる文章を産み出すに至ったのだろう(上から目線で失礼)。また、18世紀のロココ時代は「女性の時代」とも言われた。そういった様々な要因を女性である佐藤亜紀さんが咀嚼し、自分の物にしたからこそあれ程素晴らしい作品が生まれたのだと思う。
 とまぁ前置きはこれまでにし、自分に当てはめて考えてみる。俺はジャズと呼ばれる音楽をリスナーとしてだけではなくプレイヤーという立場でも携わっている。俺がやっているコンボ・ジャズには数個決まりがあり、その一つに「ソロプレイを行う」というものがある。つまりバンドの皆を従え「俺の音を聴け!」と言わんばかりに一人でアドリブを吹き鳴らす時間があるのだ。ソロの時間では一緒に演奏していた仲間が一歩引き、俺は文字通り前に出る。ハッキリ言って、孤独だ。ミスをしても仲間が拾ってくれる事はあるが、それは自分一人のミスであり俺の責任となる。俺は一曲を一つの作品として捉えているので、例えるならば文化祭にクラスの皆で作った出し物に赤いペンキをぶちまけてしまったような気持ちになる。いかに仲間が良い演奏をしていようと俺がソロ中にミスをしまったからには、その作品は不完全な物となってしまうのだ。
 いや、そんな俺のジャズ論などはどうでも良い。問題は「ジャズをやるにおいてジャズだけを聴くのは問題か否か」という事だ。俺はそこまでジャズを聴いていない。有名なプレイヤーを少し知っているくらいだし、一番好きな音楽はと聴かれたらテクノやフューチャー・ポップと即答する。それでも先人や先輩方は「ジャズを聴け、ジャズを聴け、ジャズを聴け」と念仏のように唱えるのだ。俺はそれにどうも納得がいかない。
 俺には自分を表現する場所がジャズという音楽におけるソロしか無い。このブログはなんなんだという言葉はさておき、今までの短い人生で吸収してきた事を発揮出来るのはソロしか無いのだ。ならばもう少し自分の色というか、個性というか、音楽以外で得た物を音楽に落としこむ事が出来たらなと思う。その為の手段は分からないし、一生見つからないかもしれない。もしかしたら先述とは矛盾するが、音楽が好きだから音楽で自分を表現したいのかもしれない。音楽が好きだからそれ以外の手段を俺は今までの短い人生で切り落としてきてしまったのかもしれない。言ってしまえば、もう後戻りは出来ない状況に来ている。人生の殆どを音楽と共に過ごしてきたから今更別の事をしても音楽以上に上手くいかないのではないかと保守的になっているのだろう。ま、何しろ音楽は楽しいし、別の事をやる気にはなれないんだよね。という言い訳でこの文章を〆させて頂く。